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青春18きっぷ② 長崎県の旅 永井隆記念館

12月18日(日)
大橋電停から歩いて10分位。
9時半位だったかな?
さあ、如己堂(にょこどう)、永井隆記念館に着きました。
1時間以上いましたかね。
前回の訪問は、2007年の9月 長崎さるくでした。
この時、初めて永井博士の存在を知ったのです。

今回は、3度目の訪問となりましたが、今回が一番ゆっくりと館内を拝見させてもらいました。
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ここで永井隆博士の事を手短かに書いてみます。
明治41年 島根県松江市で出生
大正 9年 松江中学校入学
(12歳) 入学試験の成績は補欠の最後の合格者で、やっと入学が出来た。
      ここからコツコツを勉強をはじめる。
昭和 7年 長崎医科大学を首席で卒業
(24歳) 卒業式で答辞を読む予定だったが、急性中耳炎で入院し、一週間、意識不明となり、耳がほとんど聞こえなくなる。
      聴診器が聞こえずに、内科をやめて放射線科を専攻する。
      これがこの後の、運命の分かれ道となる。
      長崎医大の物理療法科で放射線医学を専攻(助手)
昭和 8年 召集令状により中国大陸で1年2ケ月の任務
(25歳) 
昭和 9年 無事帰国 レントゲン助手に復帰。
(26歳) 浦上天主堂でカトリック教会の洗礼を受ける。
      下宿先のひとり娘の森山緑さんと結婚
      下宿先は、熱心なキリスト信者だった。
浦上天主堂のすぐ近くでこのあたりは熱心なカトリックのキリスト信者が約1万人住んであり、浦上天主堂の鳴り渡る鐘に合わせての祈りが行われていた。
村人の生活は、祈りに明け、祈りに暮れて、生活そのものが祈りであった。
昭和10年 長男 誠一が生まれる
(27歳)
昭和12年 2度目の召集令状 日中戦争に軍医中尉として従軍 この間2年6ケ月
(29歳)
昭和15年 長崎に戻る
(32歳) 長崎医大助教授になる。
昭和16年 次女 芽乃(かやの)が生まれる。 長女は病死
(33歳)
昭和19年 医学博士の学位を受ける
(36歳)
昭和20年 慢性骨髄白血病と診断される。余命3年との宣告
(37歳) 原因は劣悪な環境でのレントゲン検診での撮影を続け、散乱した放射線を浴びた為。

      8月9日長崎の原爆で被災。
 右側頭動脈切断の重傷。応急手当を受けて、負傷者の救護活動にあたる。
 妻 緑は即死。2人の子供は疎開先に避難させており無傷

この時の長崎市の人口24万人。
原爆による死者7万3千人。重軽傷者7万4千人。
      10月 浦上に帰り、一坪のトタン小屋に住む。
昭和21年 白血病が悪化し、浦上駅内で倒れる。
(38歳) 「長崎の鐘」を脱稿
昭和23年 如己堂が建ち、移り住む
(40歳) ヘレン・ケラー女子が来訪
      著作印税で桜の苗木千本、浦上に植える
昭和24年 昭和天皇に拝謁する
(41歳) 長崎名誉市民称号第一号を授与される
昭和26年 逝去
(43歳) 本人の意思により遺体解剖
      浦上カトリック教会葬
      長崎市公葬
      告別式には約二万人の市民が参加して、別れをおしんだ。


参考資料 「永井隆 平和を祈り愛に生きた医師」  中井俊己


わがいとし子よ
汝の近きものを己の如く愛すべし
そなたたちに遺す私の言葉は、この句を
もって始めたい。
そして恐らく終わりもこの句をもって
結ばれ、ついにすべてが
この句にふくまれることになるだろう。  いとし子よ  より





浦上天主堂、シーボルト記念館 立山防空壕 続く

by katuyamak | 2011-12-19 06:21 | 青春18きっぷ