青春18きっぷ⑤ 長崎市の旅 前編 二十六聖人、大浦天主堂
青春18きっぷを使った旅も残りが1回となる。
当初は、最後の旅は、山口県「萩」を予定していた。
しかし遠藤周作の「沈黙」を読んで以来、私の心はすっかり長崎の虜(とりこ)となってしまった。
もうしばらく、長崎に関する読書をし、訪問先もあと島原、平戸を訪問しないと、他の偉人・人物を訪ねる旅をどうしても行く気になれない。
今はとにかく心は長崎だけなのです。
そんな訳でまたまた長崎市に行ってきました。
博多発5:13分の鹿児島本線の普通列車に乗る。
長崎駅着9:12分着
片道の電車の中で、図書館で借りた「浦上四番崩れ」を読む。
浦上四番崩れが残りあと50ページとなったところで長崎駅に到着。
最後まで読まないと気持ち悪いので、長崎駅2階のロイヤルでモーニングを食べながら、1冊読み終える。
昨年12月から、ここまで読んだ本
「沈黙」 遠藤周作
「切支丹の里」 遠藤周作
「女の一生 キクの場合」 遠藤周作
愛のひと ド・ロ神父の生涯 西岡由香(漫画)
「浦上四番崩れ」 片岡弥吉
とここまで夢中になって読む。
12月23日の長崎 外海(そとめ)地区の旅から長崎キリシタンの歴史をもっと知りたくて、仕方ないのです。
今日はとてもいい天気です。
しかし朝の普通列車の中は寒かった。
最初の観光は、長崎駅を降りてすぐのところにある
日本二十六聖人記念館。
私もこの場所は何度か来ているが、詳しい歴史は知らなかった。
記念館の中もたぶん、初めて入る。(500円)
記念館入口付近のキリシタン墓地
記念館の中は撮影禁止。
二十六聖人の事を書こうと思ったが、長くなるので止めておきます。
1時間位、館内をゆっくり見学。
チンチン電車で移動して、思案橋横丁のヨコハマへ。
本当は、隣の康楽(かんろ)という店のチャンポンを食べるつもりだったが、休み。
特製チャンポン 980円。
最初は普通のチャンポンかなあと思って食べていたが、なかなか旨し。
ご馳走様です。
食後は、本日のメイン。
大浦天主堂へ。
チンチン電車で西浜町から大浦天主堂下で下車。
「女の一生 キクの場合」を読み終え、どうしても大浦天主堂に行きたくなったのだ。
国宝 大浦天主堂は、長崎市の観光名所ですよね。
長崎市に来たら、まずは、こことグラバー園。
チャンポンとカステラは定番ですよね。
しかしこの大浦天主堂に当時から悲しい歴史があった事は、今回初めて知ったのです。
私は教会の中にある
サンタマリアの像を見たかったのです。
残念ながら撮影禁止でしたが・・・
サンタマリアの像は撮影して記憶に残しておきたかったのですが、残念。
遠藤周作 「女の一生 キクの場合」より
キクが大浦天主堂のサンタマリアの像に祈るシーン。
あんたがどなたかは知らん。ぱってん清吉さんが崇めとる女たい。
女ならうちのこん気持ち、わかってくだされ。おねがいします。
清吉さんば辛か目にあわさんごとしてくだされ。
あんたも女子なら・・・うちのこん悲しか思いば・・・・。
しゃくりあげ、嗚咽し、肩を震わせ、キクはその像に訴えつづけた。
恨みごとを言った。
彼女は切支丹ではなかったから聖母への祈りなど毛頭、知らなかったが、この恨みごと、この嗚咽もまた人間の祈りにちがいなかった。
プチジャン神父
信徒発見のレリーフ
中央で立っているのがプチジャン神父。
大浦天主堂とプチジャン神父の事
大浦天主堂
1865年2月19日完成
正式名は日本二十六聖殉教者堂
日本最古のキリスト教建築物。
その名の通り日本二十六聖人に捧げられた教会堂であり、教会は殉教地である西坂に向けられている。
建立間もない天主堂は、「南蛮寺」「フランス寺」と呼ばれていた。
しかし完成しても日本人は誰も来なかった。
キリシタン禁制が厳しく敷かれていたからである。
プチジャン神父 1829年ー1884年
フランス出身のカトリック宣教師
信徒発見の出来事(1865年 3月17日)
豊臣秀吉、徳川家康と続いたキリシタン弾圧により、日本にはもうキリシタンはいないと思われていた。
プチジャン神父は、まだ日本にこの長崎のどこかにキリシタンがいるのではないか?と密かに考えていた。
お昼頃、男女小児うち混じった十二人から十五人ほどの一団が天主堂の門前に立っていた。
「ここにおります私たちは、皆あなたと同じ心でございます。」
「サンタ・マリアのご像はどこ?」
プチジャン神父は大変喜び、フランスに宛てた手紙にローマ字でこう書いていたそうです。
「Santa Maria no go-zo wa doko?」
250年続いたキリシタン禁制から隠れキリシタンの信徒発見の瞬間だった。
ここからサンタ・マリアの像は「信徒発見のマリア像」と言われるようになったらしい。
しかし皮肉な事にこの信徒発見が、浦上四番崩れを引き起こす事となる。
(崩れ キリシタン弾圧の事。浦上地区 4回目の弾圧の意味)
隠れキリシタンが公然と信仰を表明するようになったため。
明治新政府は、3,394名を津和野その他の地区に流罪、殉教者613名。
1870年ー1872年(明治3年ー5年)
飢餓、寒さ、火責め、水責め、算木責め
私は当初、明治維新、明治新政府になったからキリシタン弾圧が無くなったと思っていたが違っていた。
当時の明治新政府はみなキリシタン弾圧 賛成、当然の事の人ばかりだったのだ。
しかしこの長崎 浦上村の出来事により、日本政府は全世界を敵にまわす事になる。
この事を知らなかったのは、実は日本政府だった。
1871年(明治4年)岩倉大使一行がアメリカ、英国、各国を歴訪したが、ブーイングの嵐でどこの国からも猛抗議を受ける。
現代なら日本人拉致を知らん顔してる北朝鮮みたいな立場でしょうね。
日本国内の問題だし、これは鎖国してたから知りませんでしたでは、もう通用しなくなっていたんですね。
これでやっと日本政府も目が覚めて、1873年(明治6年)2月24日
キリシタン禁制の高札を撤去。
キリシタン禁制は262年ぶりにその効力を失った。
浦上四番崩れも読んだせいか、いろんな事実を知りました。
教会の中では、サンタ・マリアの像もゆっくり見る事ができました。
来てよかったですねえ。
祈念坂
映画「解夏」の中でもこの場所が撮影されてましたね。
旅の土産に大浦天主堂に隣接する場所で本を2冊買いました。
本日、私が日帰りで旅を終えて、自宅に帰り、23時頃、寝る前にアッと驚くサプライズがあったんですよ。
寝る前でしたが、私は思わず「ワア!」と声が出ました。
これは後編の最後の最後に書いておきますね。
青春18きっぷ⑤後編 鍋冠山の山歩きに続く~
by katuyamak | 2012-01-09 16:28 | 歴史・偉人・人物館の旅